人は怒りで我を忘れると冷静でいられなくなる

人は怒りで我を忘れると視野が狭くなる。

単純な事実や細部を見落とし、冷静でいられなくなる。

言葉の空白を認識できなくなる。

無理に冷静さを装うことでさらに本人は気付かなくなる。

 

最初は相手を打ち負かそうと必死になるが、次第に逃げ道を塞がれ、気付いたときには既に追い込まれている。

 

その人自身ではどうすることもできないほどの事実を言われたり核心を突かれると、追い込まれた対象の人間は直接的な攻撃しかできなくなる。

 

直接的な攻撃で最も分かりやすいのは相手の人格を攻撃する方法だ。

例えば、ある犯罪者や独裁者などを挙げて相手にレッテルを貼りつけるのは、その方が批判する理由を(非)合理的に構築できるからだ。

対象の人間が類似した行動を取れば、それが批判の(非)合理的理由になる。

だが、その選択をした時点でその人に相手を打ち負かす気力は殆ど残っていない。

自分の視点から切り替えることができなくなる。

そして批判した相手がそれに対して意見しても、都合のいい解釈から(非)合理的理由を探して終わらせようとする。

 

...それさえも打ち砕かれたら、どうなるだろうか。

試してみるか?

 

相手を批判する時に対象の人間に貼ったレッテルと同じレベルの方法で対抗すれば、それはもう意味を成さない。

例えば、犯罪者というレッテルを貼った相手を打ち負かすために起こした行動が「(見えないレベルで)法を犯す」行動だった場合はどうだろうか。

 

正義感は人を勇敢にさせるが、同時にその人が正義感の正体を知っているかどうかが分かるようになる。

よくある「作られた正義」を鵜呑みにしているかどうかが分かるようになる。

...そして、その人が戦争や犯罪といったネガティブな内容に対してバランスのある考え方をしているかが分かるようになる。

 

例えば、平和学習の感想で「平和」という言葉を頻繁に使う生徒に「平和とは何か」を実際に質問したらどうなるだろうか。

その生徒は何も答えられなくなるだろうか。

あるいは、その場で真剣に考えるだろうか。

 

例えば罪を償い続けることが、罪に対する「最良の方法」なのか。

果たして罪を償い続けることが「罪を償う」ことなのか。

 

見たい真実(という解釈)しか見ない人にとっては、真実は心地いいものになる。

見たくない真実(という解釈)しか見ない人にとっては、真実とは激痛を覚えるほどの痛みとして現れる。

...では見たくない真実と見たい真実を両方見る人はどうだろうか。

そもそも「真実」は存在するのか。

 

たとえ倫理観があったとしても、その人が問題を切り分けることができなければ "極端な倫理観" として現れる。

問題を切り分けられない以上、相手の倫理観の欠如を表面上で指摘することはできても的を射たものにはならない。

 

...問題を切り分ける力がなければ、どんなに戦争や犯罪について真剣に考えても同じ結論にしか辿り着けない。